公武合体により、将軍・徳川家茂が大坂城に入城(正室の和宮は江戸城に)、孝明天皇(和宮は妹)は御所にあったので、事実上の「京都遷都」により日本の政治の中心は西日本に移ってしまった。幕府は4月に京市街の治安維持のため見廻組を新設、5月には「摂海防備」(大阪湾警護)のため、神戸村に勝海舟の指導で「神戸海軍操練所」(坂本龍馬・塾頭)が設置されたが、翌6月には長州藩が孝明天皇を長州藩に連れ去り政権を奪う不穏な計画情報を入手した見廻組が京三条の宿屋「池田屋」に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃、成果を認められた江戸出身の見廻組は「新撰組」の名で一躍、時代の寵児となったが、翌7月には長州藩が報復して御所の蛤御門(はまぐりごもん、禁門)前で戦闘(禁門の変)となり、戦火は飛び火して京市街が大火となってしまった。御所に大砲を向けたことで長州藩が「朝敵」とされ、幕府が諸藩に長州征伐(第一回長州征討)を司令、同時に長州藩がかくまう七卿の身柄引き渡し問題が浮上し、長州藩士・土佐藩士らが出入りの嫌疑があった神戸海軍操練所(勝海舟の建議で設置)と併設の私塾「海軍塾」(勝海舟・塾頭)は翌年に廃止となってしまった。

 

 

 

【参考年表】

・2月 文久4年を元治元年と改元

・4月 京の市中に見廻組を設置

・5月 幕府が勝海舟の建言で神戸村に「神戸海軍操練所」

    を設置(翌年閉鎖)

・6月 池田屋騒動(新撰組が長州藩士ら殺害)

    長州藩が米国船を長門浦で砲撃

・7月 長州藩が報復し御所前で会津藩らと戦争(禁門の変)

    御所に大砲を向けたことで、長州藩が朝敵に

・8月 幕府が長州征討(第一回長州征伐)を布告

    英米仏蘭の四国艦隊が下関を砲撃、長州藩完敗

   (その報をロンドンで聞きつけた伊藤博文が仲裁

    せんと帰国の路に)

・10月 第一回長州征伐、七卿の身柄引き渡しが焦点化

・12月 長州藩主が幕府に帰順

 

 
 

第14代徳川将軍・徳川家茂(在職1858~1866)

 
 
新撰組(新選組)の近藤勇