昭和13年7月にソビエト軍が満洲国の国境を越え、豆満江北岸の張鼓峯を占拠し、塹壕・トーチカを築いたソ連兵の発砲に日本軍が応戦して戦闘状態となり、1か月後にようやく停戦となる事件があった。翌昭和14年5月に同じく満洲国境のノモンハンでソビエト支配下のモンゴル軍と関東軍との軍事衝突が勃発した。軍部が恐れていた満蒙の国境紛争には「関東防疫給水部」(石井部隊)を含む約1万5000人の兵力が投入され、国境と定めていたハルハ河を一時は越えて外蒙古(現・モンゴル人民共和国)に越境攻撃したが、8月に極東ソ連軍の戦車部隊・オートバイ部隊などの機甲部隊に日本軍は大敗北した(ノモンハン事件)。同じ8月の23日にヒトラーのドイツが仇敵のスターリンのソ連と「独ソ不可侵条約」を締結すると、今まで共産主義のソ連を仮想敵国に、陸軍が賛成、海軍が絶対反対で大揉めに揉めて進めてきた防共協定などの外交政策は何だったのかと、平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と言い残して8月28日に内閣を総辞職、後継内閣には陸軍大将・阿部信行が挙国一致内閣を組閣したが、9月にドイツがポーランドに侵攻して、「第二次世界大戦」が勃発、ソビエトは日本軍との国境をめぐる小競り合いへの拘泥をやめて停戦し、ポーランド進駐を開始した。一方、前年までに軍が中国大陸に送り込んだ兵士の数は約85万人に達していた中国戦線では、5月に中国国民党の副総裁で親日の汪兆銘(汪精衛)が、日本側に寝返って、首都の重慶を脱出してハノイ経由で上海の日本軍に迎えられると、日本軍は強硬な姿勢で天津英租界を封鎖、同地に利権を持つイギリスに対し譲歩を引き出したが、アメリカは日中戦争勃発以来、国内で高まっていた対日経済制裁論を背景に日米通商航海条約(明治44年調印)を廃棄すると日本に通告、7月に現実に失効してしまった。日本国内では、6月に国民精神総動員委員会が、遊興営業の時間短縮・ネオンの全廃・パーマネント廃止など生活刷新案を決定した。10月には国家総動員法を根拠に「価格等統制令」(9.18ストップ令)が出されて、商品価格は9月18日付けで凍結される「公定価格制度」が始まり、闇価格・闇取引は厳禁とされることとなった。

 

 

【関連年表】

 

・1月 近衛内閣総辞職、平沼騏一郎内閣が組閣

・3月 大学での軍事調練が必修に

・4月 米の配給統制令公布(10月施行)

・5月 ノモンハン事件(日ソ軍事衝突)

・7月 「国民徴用令」が施行

・8月 独ソ不可侵条約締結

   「欧米情勢は複雑怪奇」と平沼内閣総辞職

    陸軍大将・阿部信行内閣が組閣

・9月 英仏、対独宣戦(第二次世界大戦が勃発)

・10月 物価統制令(九・一八ストップ令)

     映画法実施

 
 

第34代首相・第1次近衛文麿

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/34.html

第35代首相・平沼騏一郎内閣

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/35.html

​第36代首相・阿部信行内閣

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/36.html